「できない」とのつきあい方①

こんばんは。
親子の家庭教師、藤田和彦です。

 

昨日の、
「できる」と「できない」についての投稿ですが、

なにげなく、書いてみたところ、
思いのほか反響がありました。

 

みなさん、「できない」ということに対して、
こだわったり、とらわれたりして、

 

それで、

悩んでいたり、

足が止まってしまってたり、

 

逆に、
そのこだわりと仲良くしてたり、

思いこみを克服して次のステップに進んだり、

 

いろんなカタチで、「できない」とつき合ってるんだなぁ、

と感じてます。

 

そして、みなさん、
なんだかんだ言って、

「できる」とか「できない」っていうことが、

けっこう、好き、
なんだということも。

 

はい。
自分も、好きです。

できないことが、できるようになったり、

実は、できてることに気がついたり。

「やれる」「できる」

は、
自分の可能性の、扉をひらくカギだと、思ってます。

 

 

なので、せっかくなので、

このテーマで、もう少しくわしく、書きたしておきます。

 

 

 

今日、書くのは、

「できない」とのつきあい方について。

 

昨日は、

「できない」は、そう思ってるからだ、

と、書きました。

 

 

つまり、それを理論的に突き詰めていくと、

「できる」という思いを極めきった方は、

百戦百勝、なんでもできる、万能!

ということになります。

 

 

ただ、現実の勝負ごと、となると、

百戦百勝、とはいかないものです。

 

なぜかって?

そもそも、「勝負ごと」という言葉自体が、
その中に「負け」という概念を持ってるからです。

 

まともに解説していくと、少々ややこしいので、説明のルートを変えます。

 

そもそも、
心の底から、「確実にできる」と思い込んでる場合、

それを「勝負ごと」などとは言いません。

 

「赤子の手をひねる」なんて言いますが、
赤ちゃんと腕ずもうをするときに、

「勝負!」とかって意気込んだりは、しないはずです。
おそらく、ほとんどの方は。

 

そしてもちろん、赤ちゃんとの腕ずもう対決に勝ったからといって、(例えが悪いですが)
達成感を感じたり、両手を挙げてガッツポーズ!とかも、ないはず。
ですよね?

 

 

勝負ごとって、
勝つことに「喜び」があるものですし、
(もちろん負けにも「悔しさ」とかが、ありますよね。)

勝つことを喜べるということは、
「100%常勝」ではないと、思ってるからなのです。

 

言葉の定義の問題のようですが、
意識の持ちようの問題でもあります。

 

学業においては、「受験」や「定期試験」なんかでも、そうだといえます。

受験や試験を、「勝負ごと」と捉えるのは、
当落線状のラインで、ギリギリの戦いを楽しむ方のスタイルです。

 

そうじゃなくて、
日常生活の延長線上で、当たり前のように合格していく人も、実際にいます。

「近いから」という理由で東大に通う人も、本当にいるわけなのですが、
彼らには、「負け」という概念が、そもそもありません。

 

逆に、
「どうせ無理ー」と、
ハナから記念受験を決め込んでる人もいます。
こちらには「勝ち」という概念が、無いということなのです。

 

 

要するに、

集中力をフル動員、
真剣勝負でやる「勝負ごと」には、
思わぬ「負け」つまり、「できない」という経験をすることも、

つきものだということです。
序論だけで、だいぶ、話がふくらんでしまったので、
続きは、またあらためて、書きます。

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